はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
私の父は、今現在終末期医療の病棟に入院しています。つい3日前、前々から予約していたリモート面会のため病院へ行きました。病室に行く前、担当看護師さんから、
「今朝意識が飛んで、漸くお昼に回復してきたところです。もしかすると次がない可能性もあるので、会って言ってください。」
通常は、父のいる5階フロアと受付のある1階フロアでのリモート面会ですが、直接会えるということ。施設から病院へ移動した1年と8ヶ月前に会って以来の直接面会です。動かない手足、カタコトの会話、それでも私の名を呼び、ありがとう、ありがとうを繰り返していました。
そんな父と私の、一生忘れることのない一日のことをお話しします。
元々心臓弁膜症だった母が他界したのが私5歳の時。以来、父母の兄弟やご近所さん、家政婦さんの力を借りて、私は男手ひとつで育ちました。思春期の頃には、女の子の気持ちのわからない父に苛立ち、感情をダイレクトにぶつけることもありました。
私が結婚し4人の子供に恵まれると、実家から130キロ離れた私の家まで月に2度は通い、孫たちを可愛がってくれました。嫁ぎ先が家業を営んでいたこともあり、夏休みなどの長期休みは、子供たちは父のところへ行ったきり。父を引き取りたくて、私の家で一緒に暮らすことを提案しましたが、母のお墓が遠くなるという理由で、やんわりと断られてしまう。
毎年父の誕生日、2月17日はプレゼントと子供たちひとりひとりのメッセージを送っていたのですが、5年前の2月10日、父のプレゼントとメッセージを持って実家をサプライズで訪問しました。鍵をあけ、家に入ると、火の気もなく、まるで外にいるように凍える寒さでした。
奥の部屋へ行くと、布団の中で父が丸くなっていました。青白い顔で、呼びかけると「うーっ」と唸るような声。尋常でないその姿を見て、慌てて近くの病院へ連れて行きました。
どうやって父を担いだのか、記憶が曖昧です。父は腎不全末期、即入院。あと1日発見が送れたら、生きてはいなかったと言われました。
2ヶ月の入院後、会話もできるようになり、自力で歩くこともできるようになった頃から、父は透析を望まないという選択をしました。
治療がなければ退院、しかし、腎機能が殆ど働かないため、普通の食事ができないことで、自宅療養は難しいと判断され、医療施設を併設した老人ホームへ入ることを勧められました。
介護できないことへの罪悪感でいっぱいになった私に、父は何も言わず笑いました。
病院から施設への引越しは、私の車。毎週でも毎日でも、会いたければ会える場所です。
父を施設に入れる手続きを済ませ、父の元へ立ち寄りました。
また来るね、と、父の手を握ると、涙が溢れてしまい、父は、
「なんだよ、何した?」と私の心配をしました。
うん、うん、と頷く私に、
「大丈夫だよ」と。
私は140キロの帰り道、高速道路を走りながら、ひとり車の中で、大きな声で泣きました。
5年前の4月、施設に入れる選択しかなかった自分、無力の自分に絶望しました。人はこんなに涙が出るんだと、驚くほど泣きました。
あれから何度も同じ道で父に会いに行き、今現在入院している終末期医療の病棟への転院も立ち合い、コロナ禍でのリモート面会にも通っています。その道を通るたびに、今でも私はあの時の感情が込み上げて、父の深く大きな愛と、無力な自分の切なさを抱えて、高速道路を走っています。